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『武田耕雲齋詳傳』の復刊に寄せて
作家 中村 彰彦
武田耕雲斎といえば、幕末史を語る史書のうちにしばしば登場する名前である。しかし、近 頃の高校レベルの日本史ではまず扱われなくなっているので、初めにそのプロフィルを頭に入 れておこう。
「たけだこううんさい[武田耕雲斎]1804~65.2.4
幕末期の水戸藩の執政(家老・筆者注)。水戸藩士跡部正続の長男。のち本姓武田に復す。名は正生、通称彦九郎・修理。致仕後耕雲斎と号した。藩主に徳川斉昭を擁立以来、改革派の重臣として活動。斉昭の謹慎、復職に応じて致仕・昇進したが、一八五六年(安政三)執政となる。 六二年(文久二)に一橋慶喜の上洛に随従。六四年(元治元)一月伊賀守。藤田小四郎ら天狗党 の筑波山挙兵により五月に執政を罷免された。市川三左衛門ら門閥派政権に対抗して一〇月に 筑波勢と合流、天狗党を再編してその首領となり、京都に向けて西上の途についた。途中諸藩 兵や大雪・寒気と戦う難行に力つき、金沢藩に降伏し、六五年(慶応元)二月四日、敦賀で斬刑 に処せられた」(『日本史広辞典』、ルビ筆者)
本書は、略歴を要約すれば右のようになる人物の事跡を上巻742ページ、下巻509ページにわたって詳述し、加えてその同志たちの略歴111ページ分を添えた伝記である。ただしその風貌やからだつき、性格について、著者大内地山は、
「躯幹長大であつて身の長け六尺に近かつた。そして姿勢端正で威あつて猛からざる偉人であつた。(略)容貌に痣痕(ほくろ)点々たるものがある。/其の人と為りや剛毅不屈で。義公(水戸藩第二代藩主徳川光圀)以来伝統の水戸学精神が信条であつて之れを実行に移すことに。最も勇敢であつた」
という程度しか筆を費やさない。「一名水戸藩幕末史」という副題からも知れるように、著者は単に武田耕雲斎の人生のみならず、尊王攘夷運動の東の総本山であった水戸藩三十五万石のたどった運命をも叙述しようとしているためである。
さて、水戸人の一大特徴は党争を好んだ点にある。
文政十二年(1829)に第八代藩主徳川斉修(哀公)が死亡する前後には、将軍家斉の子を養子に迎えようとする保守門閥派と斉修の弟斉昭(烈公、第九代藩主)を推す軽格改革派が対立。それが遠因となって幕府から弘化六年(1844)五月に致仕謹慎を命じられた斉昭は、嘉永六年(1853)、ペリー来航にあたって老中首座阿部正弘より幕府海防参与を命じられたが、あまりにガチガチの攘夷論者であったために開国派の大老井伊直弼によって政治的生命を奪われてしまった。
安政五年(1858)六月十九日、井伊政権が勅許なきまま日米修好通商条約に調印したのは周知の事実だが、これを不満とした孝明天皇が水戸藩にいわゆる「戊午の密勅」を下し、幕府の非を鳴らしたことも党争の火に油を注いだ。水戸藩士たちは密勅返還論者と返還反対派にわかれ、対立を激化させたのである。同年三月三日(三月十八日 万延改元)登城途中の井伊直弼を桜田門外に襲殺した水戸脱藩者たちは返還反対論者の一部だといえば、水戸藩の党争が日本全体を揺るがす地雷原のような存在へと変質していった過程が理解できようか。
このような渦巻のなかにあって、耕雲斎は一貫して改革派、返還反対論者、攘夷派(再鎖国派)でありつづけた。この党派は「天狗党」と呼ばれ、かれは天狗党の領袖格のひとりへと育っていったのである。
その耕雲斎にとってもっとも得意の時期は、皇女和宮親子内親王が十四代将軍家茂に降嫁し、世が公武合体に動き出した文久二年(1862)から翌年前半にかけてのことだったのではあるまいか。攘夷論者である孝明天皇の幕府に対する発言力が強まるにつれ、家茂もこれまでの開国策から再鎖港に傾斜。水戸藩にあっては耕雲斎をはじめ大場一真斎、岡田徳至らが家老職を占めて天狗党政権が樹立されたからである。
亡き烈公の七男に生まれ、徳川御三卿のひとつ一橋家を相続していた慶喜が将軍後見職として上京した時、耕雲斎はともに上京し、天皇から陪食を仰せつけられる光栄に浴した。
しかし、薩摩藩と会津藩が手をむすんで決行したクーデター「文久三年八月十八日の政変」の結果、すでに馬関攘夷戦をおこなっていた長州藩や尊攘激派公卿は出鼻をくじかれた。これまで三条実美ら尊攘激派公卿は攘夷親征を断行することこそ天皇の願いであると称してきたが、これはまったくの偽りだったことが判明し、全国の攘夷派は退潮を余儀なくされてしまったのである。
文久三年十月十二日に起こった生野の変は、これに反発した尊攘激派の叫びであった。おなじ不満は水戸天狗党の内部にも募り、かねてから長州藩の桂小五郎と東西呼応しての武装蜂起を画策していた藤田小四郎は、同志の町奉行田丸稲之衛門らと図って筑波山挙兵に踏みきった。いわゆる「波山勢」がそれであるが、本書には、はじめ「小四郎に対し波山義挙の早計であることを誡めた」耕雲斎が「二万両」の軍資金を与えた、という注目すべき記述もある。この点を押さえさえすれば、まもなく耕雲斎が波山勢の総帥となり、攘夷の素志を朝廷に嘆願しようとして中仙道経由越前まで戦いつつ前進した背景も理解できるのである。
特に本書上巻の後半から下巻にかけては、これら一連の「天狗党の乱」が水戸藩領から下野、上野、信濃、越前へと移ってゆく姿を諸史料によってよく描き出していることに感心させられる。特に元治元年(1864)十二月、加賀藩に投降したのは合計823人であったこと、幕府に身柄を引きわたされたかれらが敦賀の鰊粕を入れる土蔵十六棟に押しこめられて便所は四斗樽、食事は一日二回のみ、左足には足枷をつけられるという非道な待遇を受けたのち耕雲斎をふくむ352人が斬罪に処され、二百五十人が遠島になったことを詳述するくだりは本書の白眉といってよい。
わが国最大・最良の歴史辞典である『国史大辞典』の第九巻、武田耕雲斎の項および天狗党の乱の項が参考文献として本書を挙げているのは、むしろ当然のことであろう。
ちなみに、著者大内地山(明治十三年〈1880〉~昭和二十三年〈1948〉)は、茨城県那珂湊市(現ひたちなか市)出身の歴史学者。本書は昭和十一年九月十七日、水戸市の協文社内に置かれた水戸学精神作興会から発行され、昭和五十四年に常陸書房から復刻されたことがある。すでにマツノ書店から復刻された『修訂防長回天史』全十三巻と本書とを併せ読めば、西の長州、東の水戸に起こった尊王攘夷運動がどのように進展したかを包括的に知ることができよう。
なお本書には「絶対観の尊皇」という著者独自の用語が頻出し、水戸学を批判的に眺める態度に欠ける点はいささか問題なしとしない。反天狗党グループを「姦党」「奸人」と決めつけてかかる筆法には、首を傾げる人もあるかも知れない。これらの点は割り引いても、充分に読むに堪える内容になっていることを最後に付け加えておこう。
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