• 幕府領(会津藩預所)佐倉村古文書●寛文10年(1670) 会津藩家老成瀬主計が加賀前田藩家老等宛書状 大沼郡佐倉村 現在の福島県昭和村 240320_画像1
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幕府領(会津藩預所)佐倉村古文書●寛文10年(1670) 会津藩家老成瀬主計が加賀前田藩家老等宛書状 大沼郡佐倉村 現在の福島県昭和村 240320

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    開始日時 2024.05.01(水)22:56
    終了日時 2024.05.08(水)22:56
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商品説明

この書状は、福島県立博物館に写真を送って見て戴いた結果下記のことが判りました。
ご教示ありがとうございました。
会津藩家老成瀬主計(長四郎、重次)が、加賀藩家老・年寄に宛てた書状。保科正之が江戸から若松城(鶴ヶ城)へ無事に帰ったことを伝える。幕府から国許会津へ移ることを許された時期や若松城到着の月日が、『家世実紀』の記述と一致するため、寛文一〇年(一六七〇)五月と比定される。本書状の前には、加賀藩より正之を気遣う書状が届いており、その気遣いに正之も感謝している(「以御紙面申聞候処、入御念候段被致満足候」)。また齢を重ねて体調を崩すこともあった正之だが、会津に戻ってからは安定していることが伝えられている。
一 会津藩と加賀藩の関係について
会津藩と加賀藩は、前田綱利(のち綱紀、一六四三―一七二四)の正室として、保科正之の四女摩須(松)が迎えられてから親しい交流が始まる。加賀藩四代藩主の綱紀は、三歳のとき父・光高が亡くなり、家督を相続した。綱利が幼少のため、祖父・利常が後見となって補佐したが、万治元年(一六五八)に利常が亡くなると、代わりに岳父の保科正之が後見をつとめるようになった。摩須との結婚は、利常が決めたといわれ、正之が徳川将軍家の血縁者(秀忠の庶子)であること、幕閣の中心人物であること等が決め手であったという。
摩須亡き後も正之と綱利は、岳父・息子として交流を続けた。若き藩主の相談役として心の支えとなり、時には幕府内部の情報をもたらしてくれる正之は、加賀藩の家老たちにとっても極めて重要な存在であった。正之が重篤となった折には、「公方様並」の祈祷を加賀国一宮・白山咩神社に依頼するなど、加賀藩家老が正之を特別視していたことが指摘されている(本多俊彦「保科正之後見期の加賀藩について」〈『高岡法科大学紀要第二四号』、二〇一三年〉)。本書状も正之の健康状態(「打続気色宜被罷在」)を伝えており、加賀藩の関心事だったことが読み取れる。両藩の親しい交流を裏付ける史料の一つといえるだろう。 
二 村方文書に含まれていたのはなぜか
 残された手掛かりから村方文書に含まれていた理由を説明することは難しい。ここでは考えられる可能性をお伝えしたい。
本書状は加賀藩家老・年寄宛であり、原本であれば加賀藩側に残る史料である。成瀬主計の花押が無く、書き損なったとみえる部分(七行目「去」の隣りに「同」が追記されている)があることからみても、会津藩側が残した控えと考えられる。控えの史料がなぜ村方に伝来したのか。その理由を考えるため、成瀬主計について補足しておきたい。
成瀬主計は、正之が信州高遠を治めていた頃からの家臣であり、慶安三年(一六五〇)閏一〇月一三日から家老を務めている。寛永一三年(一六三六)時点で百石だった家禄は、寛文元年(一六六一)までに加増されて三千石になった(会津藩士で三千石は上位)。寛文七年には、正経付きの家老に選ばれ、正経の母・聖光院(お万の方)を後ろ盾に権勢をふるったといわれる。正之は自身亡き後の藩政を憂慮し、成瀬を誡めたが反省はみられず、寛文十二年六月に追籠蟄居を命じた。さらに正之は「成瀬主計事ハ厳重ニ押込可被置候、自然御政事ニ預度所存抔企候ハ忽御誅戮可被成」と言い残して亡くなっている。成瀬は延宝元年(一六七三)三月四日に小川庄実川村(現 東蒲原郡阿賀町)へ追放され、四月一九日に自害した(斬罪に処されたともわれる)。
成瀬が失脚すると、その一派も藩内抗争に敗れ、若松から郷村へ追放された。成瀬派の元藩士が本書状控えを所持したまま佐倉村に流れ、村役人がその人物を監督していたとすれば、関係史料が村方文書に含まれる可能性もあるのではないか。
博物館にも初代藩主松平正之の頃の文書が少ないようです。
また会津松平家と加賀前田家の関係を示す史料として大変貴重だと思います。
多くの方にご覧になって戴き貴重な資料がご研究のお役に立てればそして、故郷に帰る事ができれば大変嬉しいです。
サイズは50.2×36.8㎝です。
写真にあるスケールは全長17㎝です。
発送は追跡可能なクリックポストか補償のあるゆうパック60サイズを予定しています。
東北関東東海信越北陸地区の場合880円です。

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