新しいループ・フレームを取り入れたハーレーダビッドソンの試作モデルはダビッドソン家の裏庭にある10 ft × 15 ft (3.0 m × 4.6 m)の広さの小屋で組み立てられた[12][13]。しかしながら主要な部品の大半はどこか別の場所で製作され、その中には長兄のウィリアム・A・ダビッドソンが工具室主任を務める西ミルウォーキーレールショップが含まれると考えられる。この試作モデルは1904年9月8日までに動作するよう仕上げられ、ステートフェアーパークで行われたミルウォーキー・モーターサイクルレースに参加した。このオートバイにはエドワード・ヒルデブランドが乗って4位となった。これはハーレーダビッドソンのオートバイが歴史上初めて文書化された記録である[12]。
1905年1月、「Automobile and Cycle Trade Journal」にハーレーダビッドソン製のDIY用ベア・エンジンの小さな広告が出される。4月までに完全なオートバイが非常に限られた台数だけ生産された。その年、最初のハーレーダビッドソン・ディーラーであるシカゴのカール・H・ラングが、ダビッドソン家の裏庭の小屋で生産された5台の内3台を販売した。数年後に元の小屋はジュノー通りの工場に運ばれ、モーターカンパニーの謙虚な起源に対するオマージュとして保存されていたが、1970年代初期に工場ヤードの清掃を請け負った業者によって誤って破壊された。
1906年、ハーレーとダビッドソン兄弟は最初の工場をチェストナット・ストリート(後のジュノー通り)[14] に建設した。現在はハーレーダビッドソン社の本部となっている。このジュノー通りの工場は40 ft × 60 ft (12 m × 18 m)の広さの木造建物であった。会社はこの年、およそ50台のオートバイを生産した。